怖れについて その2

 以前のコラム「怖れについて」の中で、幼少期の分離不安や見捨てられ恐怖について触れ、そういった怖れを強く持ったまま大人になると様々な問題を抱えて生きていかねばならないということ、そして怖れを回避するあまりに怖れの連鎖というものが起こるというお話しをしました。今回は怖れについて、またもう少し別の観点から眺めてみたいと思います。そもそも怖れというのは、生物としての人間が種の存続の危険から身を守るために発生する感情であることも以前のコラムでお話ししました。もっと簡単に言ってしまえば、全ての怖れの元となるのは、死に対する怖れであるということです。

 旅行先でパスポートを落とすかもしれない怖れも、好きな人に捨てられてしまうかもしれない怖れも、試験に合格できないかもしれない怖れも、どんな怖れもそれがなぜ怖いのかということをたどって行くと、結局死ぬことの怖れに到達することになるのです。この死に対する怖れが強いということを別の言い方で表すと生への執着というように表現することができます。生への執着が強いということは、生きることにしがみ付いている状態であるため、例えば高齢による病気などの疾患によって肉体が死を選択しようとしているのに、心だけがそれを拒絶して生きようとしてしまうために、寝たきりの状態が何年も続くということが起きたりします。

 同じ生き物でも人間以外の動物の場合には、この生への執着というものがほとんど無に等しいために、肉体が死を選択した場合には心も死を無理なく迎え入れることができるので、人間のように長患いということがないのです。どこかで聞いた話しなので真偽のほどは定かではありませんが、鯨とか象というのはそれぞれの墓場というものを持っているそうです。そして、自分の死を感じ取ると、例えば象の場合だと自ら群れから離れて半日ほどの旅をして象の墓場と言われる所まで歩いていくそうです。そこで静かに息絶えるのです。鯨の場合にも同じようにどこかの海の深いところにある鯨の墓場まで泳いで行き、自然と死を迎えるということです。そこには象や鯨の骨が沢山残っているのです。

 10年ほどまえに『カラスの死骸はなぜ見あたらないのか』というような本がありました。残念ながら私は読んでいないので詳細は分からないのですが、確か著者のコメントによると、自然死するカラスの死骸は解けてなくなってしまうために発見できないのだというような内容でした。科学的な根拠があるとは思えないし、真偽の程は全く分かりませんが、そういえばあんなに大きな立派な身体をしているカラスが沢山いるのを見かけるわりには、その死骸を見た経験というのはほどんどないかもしれません。解けてなくならないにしても、見つけにくいようなところにあるカラスの墓場のようなところに行って、ひっそりと死を迎えると考えることもできないことはありません。

 勿論、象でも鯨でもカラスにしても、事故死の場合や人間に殺されてしまったりする場合は別です。墓場まで物理的に行くことができなくなってしまうのですから。そしてその他の動物の場合でも例外があるのです。それは人間に飼われている動物の場合です。特に家庭でペットとして飼われている猫や犬などの場合には、野生の動物のような自然な死の迎え方ができなくなっている可能性が高いのです。なぜならペットを可愛がる人間の心の中に強い生への執着があることによって、その影響が何らかの形で動物の心にまで届いて行ってしまうからなのかもしれません。

 野生動物のような心になれるなら、人間の場合にも自分の死を容易に受け入れられるようになって、自然な死を迎えられるはずです。高齢で重篤な病気にかかって、医師から余命数ヶ月と宣告を受けたような人の場合、最初はその言葉を受け入れられずに死の恐怖と対面することになるのですが、それを乗り越えられた人は一変して穏やかな心の状態になってしまうのです。そうして、急に残り少なくなった人生を今までに味わったことのないようなすがすがしい気持ちでまっとうすることができるのです。自分の心の中にある怖れを手放すとはそういう状態になることなのです。

 まだ肉体が死を選択してない場合に、大きな病気と闘ってそれを立派に克服して輝いた人生を取り戻そうとする心は、決して生への執着を意味するものではありません。生きたいという積極的な気持ちは、生きて自分の人生を楽しみたいという強い願いが込められているからです。死ぬことが怖くて仕方ないから生き延びたいと言う消極的な心とは真反対であると言えます。だからこそ、生きている間によく自分を見つめて、出来る限りの怖れを克服して多くを学ぶ毎日を送っている人ほど、死を受け入れやすくなるのです。逆に、自分の人生の不幸を人や環境のせいにして、毎日を不安や怖れから目をそむけて生活している人ほど、死を受け入れられずに苦しい死に際を長引かせてしまうことになるのです。

 自分で自分の命を絶つ人の場合はどうでしょうか?ちょっと考えると、生への執着がないから死を自ら選べるのだと思われるかもしれません。しかし、執着がないということは、こだわらない心、生死についてどうでもいいと思える心を意味するのですから、わざわざ生きている自分を死に至らしめるということはないはずなのです。そうして考えてみると、やはり自殺する人の心の奥にあるものは強い生への執着、強い死への怖れなのです。そして、そんな恐怖心を抱えたまま生きていくことが辛いからこそ、死への恐怖を何かを使って一時的に感じなくできた瞬間に死を選んでしまうということなのかもしれません。

 死への怖れを心の底から手放すことと、それを一時的に感じなくすることとは全く違うことなのです。クライアントさんの中には、「死ぬことなど少しも怖くない」と言われる方が時々いらっしゃいます。勿論ご本人は本当にそう感じるから言われるのですが、死への怖れがない人がセラピーにやってくるはずはありません。それは、自分の中にある強い怖れを感じることそれ自体が怖れになってしまっているために、その感覚を感じないようにしてしまっているのだと思われます。

 苦しみながら生きることの方が死ぬことよりも辛いということなのだと思うのですが、その苦しみの元が死への恐怖から起こって来てるということをよく考えてみて欲しいのです。人はみな本能として死への怖れを持って生まれてきているのです。だからこそ、まずその正当な怖れについてよく見つめて、認めてあげることです。その怖れを真正面から味わうことはそうたやすいことではありませんが、よく認めたうえで少しずつ日々のちょっとした怖れや不安を克服していくことです。常に見ないようにしたがる心をたしなめて、向き合って味わうことで開放していくことができます。そうすれば、生きている間も死を迎えるときにも、穏やかな心の状態でいることができるはずなのです。